※注意:このコラムの内容はあくまで管理人の主観によるものです。

あまり鵜呑みにせず、間違いがあると感じたらむしろ意見を掲示板なり拍手なりに書き込んで欲しいと思っています。

 

※注意2

最初に言っておく! このコラムはかーなーり毒が強い!

ただひたすら素晴らしい物だと賛美する、もしくは最初から最後まで罵り文句が延々と続くだけのものは意見としては

取り扱いません。意見は可能な限り感情を抑えた(※書いてるこっちも感情的な部分は多分に見受けられるでしょう

から可能な限りでOKです)理性的な態度でお願いします。

 

 

 

 コラム2:『魔法少女リリカルなのはStrikerS』に置ける失敗に関する考察。

 

 

 


 一応メインジャンルに創作小説を載せてる分際でなぜ『失敗』と称して語るのか……
 管理人自身不思議に思っている。少なくとも放映を見始めた頃はこんな事を書くとは想像もつかなかったものだ。
 しかし、最終回まで見終わってこみ上げてくるのは失笑と喪失感だけであった……
 だけどさぁ……正直な感想はイマイチだった。いやいい部分もあった気がするけど、殆ど悪いと思った部分で全部帳消しと言った所だ。初期シリーズだけで見るの止めとけば良かったと思わされるぐらいに……


1.まず放映前の期待について

 最初は『魔法少女育てます』のキャッチコピーから完成されていない新人を中心にしていく話を期待してたわけだ。
 既に完成された存在である前2期のキャラクターはあくまで一歩引いている状態で話はすすむのだと。
 しかし蓋を開けて見れば全くの逆、いざ戦いとなって見れば結局は新キャラ全員要らなかったとさえ思わせるほどの旧キャラマンセーな展開。さらには強くなっているのか、なってないのか分かり易く見て取れない蛇足とも取れる訓練シーン。それで無駄に尺を使った挙句ダラダラした前半の展開に加えて、詰め込みまくった結果どの新キャラのエピソードも凡庸に終わった後半。結局は大した盛り上がりもなく、萌えとエロとレズでオタクを釣ってDVDとグッズを買わせるように仕向けるだけのアニメだった。
 別に商業主義に走るなと言うつもりは無い。俺の好きな特撮番組だって玩具が売れなければどうしようもないし、利益があるから製作できる事が分からないほど子供ではないつもりだが、売れることしか考えずに内容そっちのけでウケそうな要素だけ出した作品など、結局商業面で成功した所で多くのファンの失望を買ってしまうだけだ。
 しかし、大人の視点で見る内容の良さと売り上げ高が反比例してる作品って多いよなぁ……
 今じゃ勇者の代名詞と化してる『勇者王ガオガイガー』だって当時は子供向けにしては少し難しく、商業面で失敗したから勇者シリーズの終止符を打ったわけだし。


2.主な失敗点をあげつらって見る

 2-1.キャラクターの人数及びストーリーのテンポと時間配分

 最初にも言ったが序盤のダラダラした訓練するだけの展開だが、個人的にこれは同時期に放映している『獣拳戦隊ゲキレンジャー』にも同じ事が言えた。
 ゲキレンジャーは殆どが子供に分かるおけいこ事になぞらえて戦い方を学ぶのが序盤のパターンだった

 最初に怪人に負ける→修業する→修業の成果で勝利と言う具合なのだが、少なくともゲキレンジャーは展開そのものがとても分かりやすく出来ているし、毎回毎回怪人を倒す事から子供の目から見れば爽快感に欠ける出来ではないだろう。更にこちらの場合はゲキレンジャー3人の師匠である7人の拳聖が不闘の誓いと言う理由によって敵である臨獣殿と直接闘うことが出来ない。それが未熟なゲキレンジャーに戦いを任せるしかない状況を成立させている。
(※とは言ったもののゲキレンジャーの真の魅力は個人的には敵側の方にある。
 ゲキレンジャーのライバルに当たる理央メレの二人はどんな手段を使っても力を手に入れたいという欲求がヒーロー側よりも分かり易く、強くなろうとする姿が実に格好良く描かれているのだ。
 結果として遊びじみた修業ばっかりしてるゲキレンよりも、ハードな修業をしている臨獣殿サイドの方が強くなってるように見える。とりあえずなのはStSの失敗の一つには、敵に魅力が無さ過ぎると言うのも上げられる)

 対するStSの方は機動六課の新人4人とも悪く言えば単なる人数合わせに見えてしまう時点で失敗である。
 八神はやてが六課そのものを権力者からのコネまで利用して設立した理由にしても自分の場合、旧キャラが自由に存分に暴れまわるために新キャラ全員を隠れ蓑にしたようにしか見えなかったりする。

 例えば『特捜戦隊デカレンジャー』の場合だが、デカレンジャー5人を指揮するドギー・クルーガーというキャラクターがいる。彼はデカレンジャーからボスと呼ばれており、普段は前線に出てくる事は無い。
 視聴者も当初は単なる見た目で奇をてらった司令官思ってた事だろう。ところがどっこい、第13話『ハイヌーン・ドッグファイト』第14話『プリーズ・ボス』、この2話でその認識は完膚なきまでに粉砕されるのだ。
 ドギーは元々『地獄の番犬』の異名を持つ腕利きの刑事であり、専用アイテムの『マスターライセンス』によって、
『デカマスター』にも変身してしまう。その実力に至ってはデカレンジャー5人を遥かに凌ぐほどの物である。
 それを見せ付けたのが13話で、次の14話ではデカレンジャー達はボスの強さを肌で感じて、知らず知らずの内にボスへの依存心が芽生え、本来なら5人でも充分戦える相手でもボスに助けを求めてしまうのだ。
 そして、ボスは5人の精神的成長を望んでいる事から、あえて突き放す。それ以降も余程のピンチにならない限りボスは変身しないし戦わない。ここぞと言う時に出て来てサポートする場合が殆どだ。

 正直、StSのなのはさん他に関して言えば新人たちが届かない世界で好き勝手暴れている印象しかない。
 これは言い過ぎにしてもボスのようなカッコ良さは少なくとも感じない事だけは確かである。
 奇麗事ほざいてアバレた数だけ強くなれるルールなのだろうか?



 2-2.群像劇としての失敗

 次に上げようと思うのは、多人数視点による『群像劇』としての失敗点である。単刀直入に言えば『機動六課』自体が、実験的部隊と言う本編の設定よりも、印象としてただの仲良しクラブにしか見えない。
 なのはとはやての考えと行動だけが正しくその考えだけで全てが動く。だれもそれに異を唱えないし、何一つ間違いなど起こさない完璧超人のように描かれる。ハッキリ言おう『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』のラクス教団と大差ない。『なのはさん達はこんなに凄いんだぞ』と言わんばかりの茶番劇を延々と見させられるだけの脚本には、キラ・ヤマトがフリーダムガンダムでガキ臭い夢想だけ振り回して暴れ回るのと大差ないと思わされた

 またしてもスーパー戦隊の話になってしまうのだが、『爆竜戦隊アバレンジャー』では、敵である五人目の戦士アバレキラーが登場した回で『なぜ、アバレンジャーが四人いるのか?』即ち、集団ヒーロー物で必ず突っ込まれる事柄に対して、『意見が対立することで一つの方向へ勢いだけで暴走する事を防ぐ事が出来るから』と理由を付けた。
 実際、劇中でアバレキラーのスーツとそれと共に戦う爆竜トップゲイラーは、一人きりで敵と戦う事を前提としてあまりにも強大過ぎるエネルギーを持ち、変身を繰り返すたびに変身アイテム『ダイノマインダー』が大都市を軽く壊滅させるほどの大爆発を起こしかねない危険極まりない武装となってしまい、封印された試作品とされている。
 更にこれを装着する人間である仲代壬琴は登場当初は人間社会の日常に退屈していたため、戦いをゲームと称して楽しみ、享楽的にアバレンジャーと敵対する常識的な人間の視点から見て歪んだ人間として描かれている(しかも、途中で敵の組織であるエヴォリアンのボスとして君臨してしまうのだ)。
 もしも、アバレンジャーの4人が存在しなかったら、0号スーツを装着してアバレキラーに変身し、世界を侵略する敵と戦うはずの唯一無二の存在が人間の敵として猛威を振るってしまった事だろう。

 機動六課はまさしくこの例であると私は思う。他とは毛色の違う部隊として書いたことから、階級など関係なく意見を対立させてくれる事だろうと大いに期待していたが、その実体はなのはさんを崇め奉るカルト教団状態である。

 さらに別の作品から例を挙げるが、『金色のガッシュ!』と言う作品がある。
 概要を説明すると、魔界と言う異世界を納める次代の『王』を決めるために100人の魔物の子供たちが人間のパートナーと共に最後の一人になるまで戦いを繰り広げるバトル漫画である。
 その中のキャラクターの一人で『バリー』と言うキャラがいた。
 バリーは当初、自分の力を持て余し、自分の欲望のまま拳を振るって戦う事しか出来ないチンピラ同然の魔物であった。だが、主人公のガッシュと戦った時に『誰一人として苦しい、悲しい思いをさせないやさしい王様になる』という確固たる信念を持ったガッシュの気迫に圧されて力で勝っていたはずのガッシュを倒す事が出来なかった。
 それを機にバリーは『何者にも屈しない最強の王』を目指して自分を磨き、ガッシュとの再戦を誓って去って行く。
 しかし、再登場を果たしたバリーは、いつまでもガッシュに拘るのは小さい事で、それ以上の高みを目指す武人として帰ってきた。そして、自分の代わりにファウード編のラスボスとも言えるゼオンを倒して欲しいと頼まれる(※この場面では敵の罠によりバリー以外はゼオンの下へ辿り着けなくなっていた)。
 だが、最後の最後にバリーは自分が王になる事さえも棄ててガッシュ達一行を助ける道を選ぶ。
 そしてそのパートナーにバリーが言われたセリフがある。


『お前は王にはなれなかった。だがお前は……「王をも殴れる男」になった。いくら王と言えど完璧ではない、いつか間違いを起こす事もあろう。その時にお前は王を殴ってやれる』


 つまり、ここで言いたい事はなのはが絶対に間違いを犯さず、なのはを否定する存在が誰一人としていない。と言う事である。
 群像劇の面白さの肝は、能力だけでなく価値観も違う多数の人間異なる考えによって時に対立し衝突する事にあると私は考えている。
 しかし機動六課は先に上げたように、ただの似たもの同士の馴れ合いしかない仲良しクラブにしか見えない。
 ここで例に挙げるのが賛否両論存在する8・9話。私の場合は見てて絶望した。
 撃墜するシーンはまだいい。あくまでも戦闘はまだ続行していたと考えれば、相手を戦闘不能にするのは至極当然の話である。続く9話だが、内容もだが脚本の構成そのものが余りにも酷いと感じさせられてしまった。
 まず、前半のシーンにティアナは任務の待機から外されたことに対して『言う事を聞かないやつは使えないからか?』と言い返しているが、一人だけ凡人で見下されていると言う不安を出そうとする言い回しなら

才能の無い奴は使えないって事ですか……

 とでもしておくべきである。以後に続くセリフも死ぬ気でどうこうじゃなくて、旧キャラに対する強い誤解と皮肉と自分への卑下が多分に込められた言い回しをさせておくべきであった。

 更に次のシーンでもその台詞回しが災いしてシグナムは殴りつけるわけだが、その時点で視聴者に『才能の無さに悩める凡人』としてではなくシグナムのセリフにあった『駄々をこねるだけの馬鹿』として認識させてしまう。
 個人的にこの一連の流れで『悪いのは一方的にティアナ一人である』とイメージさせるように見えてしまったのだ。
 更に言いたい事は山ほどあるが、ひとまずここで止めておき『ティアナだけを殴りつけたシグナム』の部分である。
 先述したバリーとの比較であるが、このシーンだけの場合シグナムは『ティアナを自分の理屈で殴れても、なのはは何があっても殴ろうとさえ思わない』だろうと言う事だ。
 なのはも間違えている可能性があるなどと言う認識は六課全体になければ視聴者にも与えられず、なのはの存在がまるで神のように賛美されるだけで、誰一人としてなのはを殴りも正しもしないカルト教団の出来上がりである。

 別に完璧な人間を出してはならないとは言わない。
 いい加減にしろと言いたくなるだろうが、スーパー戦隊の初期に『大戦隊ゴーグルファイブ』と言う作品があった。
 この作品は今までに続くシリーズの『骨組み』を完成させた作品といっていい作品だが、ヒーロー側は能力的にも(※特殊能力の類ではない)人格的にも優れた人間として描かれたが、決して完全無欠とまではいかずあくまでも常識的な善人として描かれていた。更には暗黒科学の力で世界征服を企む『デスダーク』と言う分かり易い悪役が存在する故に、そう言った者達と戦うにはそれだけ秀でた人間でなくてはならないと言う部分を毎回デスダークの脅迫や甘言に惑わされる一般人を登場させて対比を図る事で違和感を押さえ、爽快な勧善懲悪劇を成立させているのだ。

 個人的には軍隊モノではなく1話完結主体の刑事ドラマ路線の方がまだ良かったのではないかと思う。
 で、毎回毎回主役を変えて戦闘機人を一人ずつ倒したり捕らえたりしていけばテンポは良くなったろうね。

 後はもう、ヴィヴィオと言うキャラを出して百合萌えを狙ったあざとすぎるシーン、ご都合主義の塊に等しい展開の後半、悪としての目的が何だったのか見えてさえこない悪役未満の悪役、無駄に多すぎて存在の希薄な全身タイツの戦闘員でしかないサイボーグ軍団、機械である必要性がまったくと言っていいほど見えてこないナカジマ姉妹、それらに埋もれて肝心な見せ場が印象に残らないルーテシア一行(ただし、ゼストとアギトとレジアスだけは好きだった)。

 素材は良かった割りに、なのはと言う存在を優遇しすぎて一つの物語としての完成を放棄し調理に失敗したとだけ言っておこう。特定のキャラを気に入るのはともかくとして、愛しすぎるとストーリーさえも歪ませてしまうと言う事なのだ。

 そして、もう一つ……都築真紀と草川啓造は某負債と同じ次元にまで堕ちてしまった事を私は嘆いている……


 あと戦隊ばかり引き合いに出して申し訳ないが、このシリーズは30年近いノウハウの積み重ねによって集団ヒーロー物として最も完成度が高いと思っているし、多彩なバリエーションの模範としてよく出来ているから例にしやすいのです。


 

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